感動しました!リンゼイボン選手!

こんにちは!浅間温泉わいわい広場のミラノ五輪応援隊です。
今日は、2026年2月8日、世界中のスキーファンの胸を震わせた出来事についてお話ししたいと思います。
41歳のアメリカ代表、リンゼイ・ボン選手。
女子アルペンスキー界の生きる伝説が、5度目のオリンピックに挑みました。
しかし、その結末は誰も予想しなかった悲劇でした。1月末の靱帯断裂という重傷を抱えながらの強行出場。
そして今日、スタート直後に旗門に接触し、激しく転倒してしまったのです。
私たちはテレビの前で、ただただ祈ることしかできませんでした。
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2026年2月8日、悪夢のような転倒事故

ミラノ・コルティナ冬季五輪のアルペンスキー女子滑降競技。
コルティナダンペッツォの急斜面に、世界中の注目が集まっていました。
リンゼイ・ボン選手は、左膝前十字靱帯の完全断裂、骨挫傷、半月板損傷という三重の重傷を負いながらも、
この日のスタートラインに立ちました。スタート直後、わずか13秒後のことでした。
旗門に接触したボン選手は、激しく斜面を転がり落ちていきました。
あおむけのまま、しばらく動けない状態が続きました。
会場には緊張した空気が流れ、チームメイトや観客が心配そうに見守る中、
ヘリコプターで救急搬送されました。痛みに耐える彼女の姿に、多くの人が涙を流しました。
1月30日の靱帯断裂から、わずか9日後の強行出場

実は、この転倒事故の9日前、1月30日のワールドカップ女子滑降でも、ボン選手は転倒していました。
その時の診断結果は、左膝前十字靱帯の完全断裂、骨挫傷、そして半月板損傷という深刻なものでした。
普通なら手術が必要で、数ヶ月の療養が必要とされる重傷です。
医師からも周囲からも、出場を止める声が上がりました。でも、ボン選手は諦めませんでした。
「これが私の最後のオリンピック。何が起きようとも、私はすでに勝者なの」とSNSで語っていた彼女。
膝にテーピングを施し、痛み止めを飲んで、スタートラインに立つ決意をしたのです。
私たちはその強い意志に、感動と同時に心配の気持ちでいっぱいでした。
W杯女子歴代最多84勝という圧倒的な実績
リンゼイ・ボン選手について語るとき、その輝かしい実績を抜きにすることはできません。
W杯で女子歴代2位となる84勝という記録は、まさに伝説そのものです
(現在の1位は同じアメリカのミカエラ・シフリン選手の108勝)。
さらに、ワールドカップ総合優勝を4回も達成しています。
2010年のバンクーバーオリンピックでは滑降で金メダルを獲得し、スーパー大回転でも銅メダルを手にしました。
2018年の平昌オリンピックでも銅メダルを獲得。世界選手権でも金メダル2回を含む8個のメダルを持っています。
そして何より、2026年1月には41歳でW杯滑降優勝を果たし、
男女を通じて史上最年長優勝記録を樹立したばかりでした。
8季ぶりの優勝でしたが、彼女の技術と精神力の強さは全く衰えていなかったのです。
2歳からスキーを始めた少女時代、憧れはピカボ・ストリート
ボン選手がスキーを始めたのは、わずか2歳の時でした。
ミネソタ州のツインシティーズ地域、バーンズビルで育った彼女は、
祖父のドン・キルドーさんの影響で、ウィスコンシン州ミルトンのスキー場に通うようになりました。
小さな頃から、彼女にはヒーローがいました。
それが、同じアメリカのアルペンスキー選手、ピカボ・ストリート選手です。
ピカボさんは1998年の長野オリンピックで金メダルを獲得した、当時の女子スキー界のスーパースターでした。
少女だったリンゼイは、テレビでピカボさんの滑りを見て、
「私もいつか、あんな風にオリンピックで金メダルを取りたい」と夢を抱いたそうです。
その夢は、2010年のバンクーバーで見事に叶いました。
そして引退間近の2019年には、
憧れだったピカボさんから励ましの言葉をもらっていたというエピソードもあります。
2019年の引退、そして2024年11月の電撃復帰
2019年2月、スウェーデンのオーレで開催された世界選手権を最後に、ボン選手は現役引退を表明しました。
度重なる怪我との闘い、特に膝の故障に悩まされ続けた彼女は、「もう限界」と判断したのです。
引退後は、モデルとして活動したり、スキー関連の仕事に携わったりしながら、新しい人生を歩み始めました。
ところが、2024年11月、驚きのニュースが飛び込んできました。
リンゼイ・ボン、現役復帰!右膝に人工関節を入れる手術を受けたことで、痛みが大幅に軽減されたのだそうです。
「もう一度、あの感覚を味わいたい」という強い思いが、彼女を再びスタートラインに立たせました。
5年以上のブランクを経ての復帰でしたが、彼女の闘志は全く衰えていませんでした。
そして復帰後わずか数ヶ月で、W杯優勝という快挙を成し遂げたのです。
怪我に泣き、怪我に勝ち続けたキャリア
実は、リンゼイ・ボン選手の現役時代は、怪我との闘いの連続でした。
膝の前十字靱帯損傷、骨折、腕の骨折…何度も何度も大きな怪我を乗り越えてきました。
2013年には右膝の前十字靱帯と内側側副靱帯を断裂し、長期離脱を余儀なくされました。
2016年にも骨折で手術を受けています。
普通の選手なら、一度の大怪我で引退を考えるところですが、彼女は違いました。
リハビリに励み、必ず復活して、またW杯の表彰台に立つ。その繰り返しでした。
「怪我をするたびに、私は強くなれる」と語っていたボン選手。
痛みと向き合い、恐怖を乗り越えて、再びスキー板に乗る。その姿勢こそが、彼女を伝説にしたのだと思います。
今回の転倒も、彼女のキャリアの一部として、きっと語り継がれていくことでしょう。
「5度目にして最後のオリンピック」という決意
ボン選手は、SNSで何度も語っていました。
「ミラノ・コルティナが、私の5度目にして最後のオリンピック」だと。
2002年のソルトレイクシティ、2006年のトリノ、2010年のバンクーバー、2018年の平昌、
そして今回の2026年ミラノ・コルティナ。
実に24年間にわたる五輪キャリアです。
41歳という年齢は、スピード系のアルペンスキーでは考えられないほどのベテランです。
それでも彼女は、「最後にもう一度、五輪の舞台で滑りたい」という思いを胸に、この日を迎えました。
1月30日の靱帯断裂のあと、「何が起きようとも、私はすでに勝者」
「スタートラインに立てるだけで幸せ」と語っていた彼女。
結果ではなく、挑戦することそのものに意味があると、彼女は教えてくれました。
その言葉に、私たちは深く心を動かされました。
ヘリコプター搬送後の容態と、世界中からの応援メッセージ
転倒後、ヘリコプターで搬送されたボン選手は、コルティナの病院で検査を受けました。
国際スキー連盟の会長ヨハン・エリアッシュ氏は、「転倒は靱帯断裂が原因ではないと思う」
とコメントしていますが、詳しい怪我の状況はまだ明らかになっていません。
世界中のスキーファン、そして彼女を尊敬する多くのアスリートたちが、
SNSで「リンゼイ、大丈夫?」「早く元気になって」というメッセージを送っています。
私たち浅間温泉わいわい広場も、遠く長野の地から、彼女の回復を心から祈っています。
痛みに耐えながら、最後まで諦めずに五輪に挑んだ彼女の姿は、多くの人々の心に勇気を与えてくれました。
結果がどうであれ、リンゼイ・ボン選手は、間違いなく真の勝者です。
個人的に感じたこと:年齢を超えて挑戦する姿に涙が止まらなかった
正直に言うと、今日のレースを見ながら、私は何度も涙が溢れてきました。
41歳という年齢で、しかも重傷を負いながら、それでも諦めずにスタートラインに立つ姿。
私は小さなサロンを運営している身ですが、年齢を重ねるごとに「もう無理かな」と思うことが増えていました。
でも、ボン選手の姿を見て、「挑戦することに年齢なんて関係ないんだ」と強く感じたんです。
彼女は確かに転倒してしまいましたが、その挑戦する姿そのものが、どれだけ多くの人を勇気づけたことでしょう。
私も、彼女のように、何歳になっても新しいことに挑戦し続けたいと思いました。
まとめ:リンゼイ・ボンが教えてくれた「挑戦の価値」
ミラノオリンピック、リンゼイボン復帰の物語は、悲しい結末となってしまいました。
しかし、彼女が私たちに残してくれたメッセージは、決して消えることはありません。
「年齢は数字に過ぎない」「怪我や困難があっても、夢を諦めない」「結果ではなく、挑戦することに意味がある」。
そんな大切なことを、彼女は身をもって教えてくれました。リンゼイ・ボン選手、本当にお疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。あなたの勇気ある挑戦は、世界中の人々の心に、永遠に刻まれることでしょう。
私たち浅間温泉わいわい広場からも、心からの敬意と感謝を送ります。


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